感覚過敏
精神障害と呼ばれる方々
発達関連、福祉関連
のことについて
今までの自身の環境を通じて
様々なそういった
子供、大人の方々と接する機会
そんなご縁、繋がりが
多くある日々の中に思うことなど
🍀優しさとは
”行動で表す”というよりも”相性”
であると思うこと
「相手への自分の優しさが丁度良ければ
同時に厳しさも努力や忍耐として
自然と積み重ねることが出来る」
けれど..
相性やその人への
思いの強さにも違いがあり
なかなかその思いは
伝わり合えないこともある
~少数派~
多数の人と違う感覚の過敏・拘り
感覚過敏な人がいる。
その ”気持ちは目に見えない”けれど
”行動で見る”ことが出来る
小さな頃の
癇癪と言われる状態のある子の
その度合いうや頻度はそれぞれで
4、5歳頃を越えても
頻繁に続く状態は
毎日接する人も疲れ果ててしまいい
どうしたらいいんだろうと
日々悩んだりということを
繰り返している
なぜ暴れているのだろう..と
同じ目線で過ごしていると
感じ取ることが出来ることもあれば
その気持ちを探ることが
難しいことも沢山あり
けれど暴れている内側には
感覚の過敏さであったり
理由がいつもある
~感覚過敏~
多くの人にとっての当たり前の日常を
沢山の刺激(視覚・聴覚様々な負荷)を受け
抱えて過ごしている
広々とした場所で
自由に走り回る子供達がいて

けれど感覚過敏にとっては
降りることのない
”平均台の上を歩いているようなもので”
いつも力が入ってしまっている
その人の度合いによっては
綱渡りなのかもしれない。

その感覚は目には見えないけれど
本人は不安で落ち着かなくて
なんだか自分だけ出来ないことが
沢山ある感じがして
イライラして、暴れて、、
そして我儘だって言われ
落ち込み、、
それでもまた暴れてしまって
そしたらめちゃくちゃ怒られて
..それはその人にとって
どんな心の状態なのだろう?
目に見えないことは
理解が難しい だから
落ち着くのを待って
聞いてみる そして、先ず信じて
小さな手助けをする
そうしていくと
少しの笑顔が見えてくる
優しくするから
我儘になってくわけじゃない
歩き慣れない場所に慣れてくまで
手助けが必要なだけ
我儘なだけなのかその境の
判断はとても難しい、けれど
多くの人と過ごす場所では
常に疲れてしまっている
歩き方に慣れても
なんだか周りとは違う
けれどその違いは
それぞれに大切な個性。
目に見える傷や
小さい子供の場合には
周りの対応は自然と違ってくる
手助けが当たり前のように
なるけれど
人の感覚は目に見えない。
目に見えない負荷が比較的少ない人と
同じ環境で過ごしていくために
同じ我慢を上乗せしていけば次第に
・逃げ道を作るようになったり
・嘘をつくようになったり、、
・我慢を重ねていく
そんな我慢や心の防衛だけを見れば
今度は ずるさや、弱さ
自分のせいだ と、
周囲からの理解は難しく
更に塞ぎ込んでしまったり
することもある
幅の細いその上をゆっくりと
次第に慣れていく
慣れていっても人とはなんだか違う
歩いている場所が違うから
そんな対象を見守りながら..
●目に見えない感覚をいくら伝えても
理解されることは
親子でも難しいことがある
そんな日々が積み重なると
→自分の感覚をいくら伝えても
どうせ無理だ、と
自分で自分を抑え込み
塞ぎ込んでしまったり
外からの圧力が強すぎれば
抑え込まれていってしまうこともある
●気持ちをよく理解して
目に見えない感覚を共感し、
いくらでも寄り添ってしまう人に対しては
相手もそれを自然と感じ取り
思いのままにいられるけれど
優し過ぎると今度は
我儘との境も曖昧になり
支配されてしまうこともある。
けれど優しさの種類や量を
減らすことで調整が出来る。
思いのままに優しくして
自分が壊れてしまわないよう..

その優しさを
ほんの少しずつ
様子を見ながら
足りない時に少しずつ
足していけばいい
どうしても難しいようなら
優しさを少し補充しながら
手助けをしていく
それは過敏じゃない人にも
同じでありながらも
手助けする箇所が違う
誰もが出来そうなことを
手助けしていることで
甘やかしや、過保護だと
言われることがあるかもしれない
けれど、自分のしていることを
信頼し続けることが大切で
どこまでも優しい
あなただから出来ること。

自身のケア
自分の心を大切にすることが
とても大切です🍀